第一話 神様は僕らを見ていない

 一陣の風が吹き抜ける。冷たい爽快感を伴ったそれに、満潮は嫌な汗を拭ってもらっているような感覚だった。
 目覚めは最悪。依然身体は痛み、悪夢に心はしぼんだ。それでも生きている。生き続けなければならない。そう風に諭されているようでもあった。
 再び周囲を見渡す。先ほどの海兵隊員の姿は見えない。甲板上にはぽつりぽつりと人影が見られたが、誰も満潮の方は見ていなかった。こんなことなら彼の厚意を無駄にするのではなかった。
 一刻も早く状況を把握しなければ。満潮は少し働くようになった頭を必死に動かし記憶をたどった。
 だがこの甲板で目覚める前のことがすっぽりと脳の領域から抜け落ちているようなのだ。いくら思い出そうとしても、始めから存在しなかったかのように意識が明瞭としない。自分が鉄の船だった頃の記憶なら嫌というほど鮮明に思い浮かぶというのに、だ。
 ならば自分は艦娘として生を受けたばかりなのかと己に問うと、それもおそらく違うと心が断言する。他の記憶はないけれど満潮は自分の今の姿を思い出せる。体の動かし方も、言葉の発し方だって熟知している。生まれたばかりなはずはない。
「記憶喪失……?」
 額に手を当ててそう呟いた。
 自分は深海棲艦との戦いで負傷し、脳に障害を受けた。悔しいけれどもそれが一番しっくりくる。
「悪い夢ね」
「夢がなんだって?」
 ひゃっ、と思わず変な声がもれた。急に話しかけてきた無作法者の方を睨むと、そいつは甲板の縁に立って太陽みたいに笑っていた。
「涼風。居たのならもっと早く声をかけて」
 涼風とは前世でもちょっとした縁のあった仲だ。自然と名前が思い浮かんだことから、きっと艦娘となってからも面識があるに違いない。今の自分の状況を知るのに必要な相手だと満潮は判断した。
 ところが、当の涼風ときたらぽかんと大口を開けて突っ立っている。あまりの気の抜けた表情に一瞬こちらが戸惑ったくらいだ。
「ちょっと、なによその顔は」
 満潮がきつい視線を送ると、涼風は数度まばたきをした。そうして相変わらず驚いた様子で逆に尋ねてきた。
「満潮……なのかい?」
「他の誰に見えるっていうの? ねえ、状況を説明してほしいのはこっちなんだけど」
 そう言い終わるか終わらないかのうちに涼風がすっ飛んできて満潮を抱きしめた。
 あまりの出来事と身体の痛みに満潮は頭が真っ白になる。
「よかったあ。あたい、この姿で生まれてからさ、ずっと満潮とはいつ会えるかなって楽しみにしてたんだ。ああ、そうだよ。どこからどう見ても満潮じゃんか。なんですぐ気づかなかったんだろう」
 早口でそんなことをまくし立てながら、涼風は遠慮なく満潮を抱きしめ、確認するかのようにペタペタと触ってくる。満潮からしたら傷口に塩を塗り込まれているようなもので、声にならない悲鳴をあげて、かろうじて涼風を突き飛ばして逃れようとした。ほとんど火事場の馬鹿力だ。
「痛いじゃない! 私、怪我してるのよ?」
「あ、わりいわりい。つい嬉しくなっちまって、報告にあったのすっかり忘れてた」
 涼風は鼻の頭をかきながら申し訳無さそうにまたこちらにすり寄ってきた。
 満潮は条件反射的に身構えたが、今度は一定の距離でちゃんと止まってくれた。だけどその表情はすっかり緩んでいて、いかにも嬉しそうだ。
 自分と涼風はこの姿では初対面だったのかもしれない。満潮は自らの曖昧な記憶に辟易しながらも、ひとまずはそう結論づけた。詳しいことはこれから涼風に直接聞けば良い。
 ひとつひとつ疑問を口にすると、涼風は気分良く答えてくれた。

 どうやら満潮はこの付近の海域で漂流しているところを、涼風が護衛していた輸送船団に保護されたという話だった。ならば涼風とは艦娘としては本当に初めて言葉を交わしたのだろう。姿がすぐにわかったのは、前世で繋がりのあった艦娘同士では珍しくないことだとも教わった。
 すると自分はやはり艦娘として生まれたばかりなのか。
 この疑問に対しては涼風は首を横に振るにとどまった。
「そればっかりは状況的にわかんないよ。もしかしたら他の艦隊が今頃必死に満潮を探してるかもしれねえ。その場合、満潮はそっちの所属になる。まあ、記憶が戻ればわかることさ。戻らなかったら、このまま、あたいらと一緒にいればいい」
 涼風はそう言ってまた笑った。
 簡単に言うなと満潮はその無責任さに少し苛立ったが、不思議と拒絶する気にはなれない。涼風にはそういった独特な雰囲気があった。
「とにかくこの船もあと一日足らずで鎮守府に着く。そこで提督に相談すれば万事解決さ」
「そうだといいけど。ねえ、その提督って――」
 どんな人なの? そう聞こうとした矢先、甲板上に警報が鳴り響いた。
 周囲がにわかに騒々しくなる。無意識のうちに満潮は涼風の方を見遣った。彼女は先ほどまでの気の抜けた顔はどこへやら、すっかり臨戦態勢になっている。満潮はそれで状況を悟った。
「わりい、満潮。ちょっと出かけてくるよ」
「敵なの?」
 涼風は返事をしなかった。代わりに背中越しに手を振って、颯爽とその場を立ち去っていく。格好つけめ。満潮は舌打ちすると、すぐさま後を追おうと立ち上がった。
 その行く手を遮ったのは、あの海兵隊員だった。
「きみを行かせるわけにはいかない。今涼風と約束したんだ。きっとついてこようとするから、力づくでも止めろって言われている」
「そう。なら止めてみなさいよ」
 そう言うやいなや満潮は素早く自身の艤装を身にまとった。思ったとおりかろうじて自力航行可能なまでに修復されている。艤装を身に着けたことで満潮自身の身体の痛みもいくらか薄らいだ。これならばいける。
 そう確信して再び海兵隊員と対峙する。譲る気は、なかった。
 一方の彼もなんとか満潮をなだめようとしているようだった。
「待つんだ。気持ちはわかるが、今のきみが行ったところで足手まといにしかならないぞ。仲間を信じて待つことだって大切なことだ。聞き分けてくれ」
「はっ! 待つですって? そうして膝を抱えてただ待っているだけなら、いっそ弾除けにでもなる方がずっとマシだわ」
 彼の言い分は正しい。こんなことは自己満足にもならない。幼稚で、独りよがりで、馬鹿なことをしているのは自分だ。
 それでも止まれないのは。自分だけ戦わずに待っていられないのは……朝潮型が決して仲間を見捨てないからだ。
 満潮は鎖を乗り越え、海へ身を投げ出した。慌てて止めようとした海兵隊員だが間に合うはずもない。身を乗り出して自分を見下ろす彼に向かって、満潮は不敵に微笑んでみせた。
「待っているだけで助けてくれる神様なんて、どこにもいないのよ」
 私は、朝潮型三番艦『満潮』だ。

 

 つづく。

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2021年12月7日